治験や臨床研究を実施する企業からのご相談で近年増えているのが、「被験者の健康被害に備えて、賠償責任保険に無過失補償(補償担保)を追加したい」というものです。ところが実務を進める中で、「賠償」と「補償」の違いが曖昧なまま話が進み、社内説明や保険会社とのやり取りで混乱が生じるケースを多く見かけます。本稿では、この2つの概念の違いと、無過失補償特約が実際にどのように保険契約に組み込まれるのかを、実務者の視点で整理します。
「賠償責任」と「補償責任(無過失補償)」は別の枠組み
賠償責任保険は、治験依頼者に法律上の賠償責任(過失責任)が認められた場合に、その損害(治療費・休業損害・逸失利益・慰謝料等)を填補する保険です。責任の有無は、示談または判決によって個別に判断されます。
一方、補償責任(無過失補償)は、治験への参加に起因して健康被害が生じた場合に、過失の有無を問わず、あらかじめ定めた基準に基づき定額の給付(医療費・医療手当金・補償金等)を行う仕組みです。日本では「医薬品企業法務研究会(医法研)」が定める「被験者の健康被害補償に関するガイドライン」が事実上の業界標準となっており、2026年現在の最新版はVer 3.3.1(2024年8月改訂)です。改訂のたびに抗がん剤・予防ワクチンの治験に関する規定が追加されるなど、内容は継続的にアップデートされています。
この2つは法的性質も給付の根拠もまったく異なるため、同じ保険証券の中に両方が含まれていても、担保範囲や支払い基準は別物として整理する必要があります。ICF(説明文書・同意文書)に「補償」と「賠償」を混同した記載があると、被験者への説明責任の観点からも、保険金請求の場面でも、思わぬ齟齬を生む原因になります。
無過失補償特約はどのように保険契約に組み込まれるか
ここで誤解が生じやすいのが、「保険会社が定める支払い基準に、自社の補償ルールを合わせなければならない」という思い込みです。実際の順序はその逆です。
- 治験依頼者が、自社のSOP・補償ガイドラインで「何を、どこまで補償するか」を決める
- 保険会社は、その内容をそのまま担保できるよう、特約条件(限度額・免責等)をオーダーメイドで設計する
- 実際に健康被害が発生した際は、治験依頼者が自社のSOPに基づき補償額を算定し、保険会社はその金額を特約の範囲内で保険金として支払う
つまり、補償の中身(医療費の算定方法、補償金の区分、免責事由など)を決めるのは治験依頼者自身であり、保険会社はその内容を引き受け可能な形に設計するという役割分担です。この順序を取り違えると、「保険会社の基準に合わせなければ加入できないのでは」といった不要な不安や、SOP策定の停滞を招きます。
医療費補償でつまずきやすい2つの論点
SOPを実際に策定する段階で、多くの企業が立ち止まるのが医療費補償の算定方法です。代表的な論点は次の2つです。
高額療養費制度をどう扱うか。 高額療養費制度は、公的医療保険の自己負担額が一定額を超えた場合に還付を受けられる制度です。これを考慮せず、制度適用前の自己負担額をそのまま補償基準にすると、被験者への補償は手厚くなる一方、実際の経済的損失を上回る給付となり、コスト面の負担が大きくなります。
保険給付等による填補部分を控除するか。 同一の損害に対して二重に補填することを避ける「利得禁止の原則」は、損害保険における基本的な考え方です。健康保険や高額療養費による填補分を控除した上で実質的な自己負担額を補償する、という設計のほうが、コスト・整合性の両面でバランスを取りやすい傾向にあります。ただし、被験者個人が任意で加入する生命保険・傷害保険等の保険金は、本人が自ら保険料を負担して得た給付であるため、通常は控除の対象外とされます。
これらはいずれも「正解」が一つに決まっているわけではなく、治験依頼者が自社の方針として決定すべき事項です。ただし、どちらを選ぶかによって、被験者への説明のしやすさや、将来の保険料水準、支払い実務の煩雑さが変わってくるため、SOP策定の初期段階で意識しておく価値があります。
まとめ
無過失補償の追加を検討する際は、まず「賠償」と「補償」が別の枠組みであることを社内で共有したうえで、自社のSOP・補償ガイドラインを先に固め、それを保険会社に提示して担保設計を依頼する、という順序で進めるのがスムーズです。医療費補償の算定方法のような細部は、一見ささいに見えて、被験者への説明責任や将来のコストに直結します。判断に迷う場合は、治験保険に詳しい保険代理店TSIに早めに相談されることをお勧めします。
TSI船着久稔 funatsuki@tmnf-tsi.co.jp



